昨日は熊本でネタ。全国各地行っても知ってくれてる人がたくさんいるのはやっぱり驚異的なこと。ありがたい。
さてさて、1ステ目と2ステ目の合間、ヒレカツ弁当を蹴ってまで熊本に来たのだからと後輩のカーネギーさわくんと熊本ラーメンを食べに出かけた。非常に美味しい。
博多のような豚骨をベースに麺は博多より太め、焦がし黒マー油が浮いているのがポイントだそうだ。生卵なのはこの店なのか熊本だからなのかはわからない。
この仕事で全国を飛び回っていると、津々浦々ご当地ラーメンがある。ありすぎる。どの空港にもご当地ラーメンを家でも食べれるキットが売ってある。
調べてみた。
ありすぎた。
現時点で日本ラーメン協会が認知してるご当地ラーメンは200を超えるらしい。
ふざけている。
そもそもご当地ラーメン!みたいな言い方してるけどあんなのパクりの横行じゃないか!だろう?
博多ラーメンにしても、街ができた頃から博多ラーメンがあるわけじゃなく、一件のラーメン屋が今の博多ラーメンの原型みたいなやつを提供し、それが口コミで、広がり、パクる店が増えて、ああなんだか博多周辺には豚骨、細麺のきくらげや紅生姜が入ったラーメンが多いな。そうだ!これを博多ラーメンと名付けよう!!
みたいな感じ。
パクりじゃん!!!おい!!ふざけんな!!って食の世界では無い文化なのかな。だいぶクリエイティブな世界ではあると思うんだけど、お笑いや音楽とかのエンタメと違って、生活に近すぎるからなのか。
ご当地グルメ=その地域でのパクりの横行。
こんなことを言ったら怒られるかもしれないけれども実際そう。てかそもそももうこの世にパクりじゃないものなんて存在しない。パクりは悪いものでは無いとは思うけど、各々で自分のエッセンスを加えて欲しいよね。
漫才もM-1で、オリジナリティがどうだこうだと言われてるけども、結局、大枠のセンターマイクの前に出てきて話芸で笑いを取るというルールは、先人達師匠達のパクりじゃないか。
ちょっとその感じやってみたいから練習するのも、初めて漫才で練習した先輩(どなたか存じあげないけれども)のパクりでしょう。
模倣を否定するのではなく、先人達の作品に敬意を払いながら、良いものを、自分のクリエイティブというフィルターを通して、さらに良くしていく。物が溢れすぎてそれしかもうできない。
石から始めてナイフを作った原始人みたいなことはもうほぼできない。歴史を見て直近でもアインシュタインとかライト兄弟とかエジソンとかそのあたり?、
独自の視点であるものを模倣して改良する。
それが今を生きる人間にとって必要なこと。
だから、博多で今まである博多ラーメンを出すラーメン屋や、芸人で今まである芸をしている芸人は、需要はあるのかもしれないけど、別に、今、存在しなくても別に良くない?って感じ。そういう意見。
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